水無月の五日。



この所、会津守護職御預となり京の治安に目を光らせている新選組が、
一層警戒を強めている、という情報を耳にした乃美は、桂達の身を案じていた。
長州藩邸留守居役を務める彼は、常に藩の存続を第一に考えねばならない。
桂が藩邸を留守にする時は、瞬時に的確な判断を下さねばならない。
大切な人材を、無暗に失っては藩が衰退の一途を辿る。
今まさに、誰もが匙を投げるであろう大きな志に向かって、
着実に足場を固めている慎重派の志士は、藩に希望を齎すであろう。
だからこそ、新選組に桂達を討たせる訳にはいかない。


水無月に入り、それまで夜には必ず藩邸に戻っていた吉田が、度々町宿に泊まるようになった。
それは、桂達と京を離れる為の旅支度に奔走していたからである。
しかし、今町宿では頻繁に新選組や京都見廻組の手によって、
不穏な動きを見せた志士達が捕らえられている。
乃美は一瞬頭を過った嫌な思いを断ち切ろう、と外の空気を吸おうと外に出た。
そこで門から出ようとする人影を見つけ、声をかけた。



「吉田君、出掛けるのかい?」

「乃美先生……」



やはり、忠告だけはしておいた方がいいだろう。
乃美は吉田に一つだけ進言した。
「最近町宿は物騒だと聞くよ。何時御用改めがかかるかも分からない。夜は藩邸に戻りなさい。」
その言葉で、乃美が言わんとしたことを悟った吉田は、素直に応じ頷いた。
立ち去ろうと吉田が歩み始めた時、袖の辺りから何かが落ちたので、乃美はそれを拾おうと近づく。




「吉田君、何か落ち………京紅!?」
「………!!」




乃美が驚くのと同時に、吉田も顔色を変え引き帰してくる。
その顔で乃美は、先日吉田の表情が変化した所以を理解した。
「贈り物かな?そういえば今日は宵山だったね。楽しんでくるといい。」
「あ……ありがとうございます。」
耳まで赤く染め、こちらを直視できずうろたえる吉田など、今まで見たこともない。
何と純粋な青年であろう。
そして、この青年の心を捉えたのは、どんな女子なのか。
問うてみたかったが、この場で聞くより、
宵山を楽しんだ後に聞いた方が、良い話を聞けるかもしれない。



それにしても、何時の間に女子と出逢うような時間を持てたのか。
「君も隅に置けないね。」
そう言うと、吉田は夕日の様に染まった顔を更に赤め、慌てて踵を返した。
「行ってきます!!」
乃美は走り去っていく吉田の後姿を、微笑ましく見送っていた。


「吉田さんは出掛けたのですか?」


振り返れば、杉山から屋敷から出てきたところであった。
「ああ、どうやら宵山を一緒に回るいい人が居るみたいだね。」
その言葉で杉山の脳裏には、先日擦違った少女が浮かんだ。
と、同時にもう一つの言葉に引っ掛かりを覚えた。
「宵山に行ったんですか?」
「多分…そういえば今日は池田屋で志士を集めての会合が有るんだったね。」
「はい。」
「桂君は?」
「池田屋には行かないそうです。全ては宮部先生と吉田さんに任せてある…と。」
「彼の事だ。会合には必ず顔を出すだろう。」
「ええ。」
杉山は、吉田が今日の会合の事を忘れているのでは、
と不安になったのだが、乃美の言葉を聞いて安心した。



「桂君も大変だね。あの血気盛んな者達を同時に多数相手にしなければならないのだから。」
「毎度説き伏せるのに骨を折っていますよ。相手をするのに
少々疲れたので、今日は休ませて欲しい…と仰ってました。」
「その気持ち、よく分かるね。彼らは違う次元で物事を考えるから、
いくら話していても交わる所がないんだ。」
そう言って二人は顔を見合わせると、吹き出し、腹を抱えて笑った。








しかし間もなく、そんな穏やかに流れる時間を急変させる知らせが藩邸に齎された。
早朝に枡屋の主、古高俊太郎が新選組に捕らわれ、
屋敷に隠しておいた武器弾薬も全て押収されてしまったというのだ。
新選組が警戒を強めていた事から、激派の動きがあちら側に悟られていた事が覗える。
当然、彼等にも古高捕縛の事件は伝えられた。


「だから、新選組が動き出す前に実行すべきだったんだ!」

「桂の腑抜けめ、奴等に臆したか!」

「こうなったら、我等で一刻も早く古高を奪還すべし!」

「池田屋の会合で詳細を決めようではないか。」


激派の志士達は口々に、そのような事を吐き出し、息巻いて出掛けていった。




「嫌な予感ほどよく当たる物だ。事態はあまり思わしくないね。」
「先ずは吉田さんに知らせてきます。」
「ああ、それがいい。彼と宮部さんが居れば、間違った答えに直結する事はないだろうからね。」
杉山は頷くと、藩邸を飛び出した。
吉田が行く先に宛てはない。
だが、何となく、以前吉田をつけた際の道筋を辿れば会えるであろう、と確信していた。



杉山の予想は当たった。
先日の饅頭屋より少しばかり下った所で、吉田が佇んでいた。
その傍らには先日の少女が居て、何かを謝罪しているらしく、
何度も頭を下げながら去っていった。
吉田は少女の後姿を、淋しそうに見送りながら、藩邸への帰路を辿り始める。
声をかけるなら、まさに今である。



「関口さん!」



驚いた吉田が、弾む様に振り帰った。
「ここにいらしたんですね。」
「乃美さんか…。どうしたんですか、そんなに慌てて?」


「……今朝、古高さんが新選組に……」
「…………どういう事だ!?」


杉山の一言で、吉田の顔が急に強張り始めた。


「京に火を放つ計画が、既に実行直前まで進んでいたそうです。
武器も全て押収されたそうで、これから池田屋で、
激派の者達が、今後の事を詰めると息巻いて藩邸を出て行きました。」
「まずいな…古高さんの事ですから、そう簡単に口を割る事はないでしょうが、
新選組に計画が知られるのは時間の問題。
それまにで打開作を見出さねば、今度こそ我らは諸藩に討伐されるでしょう。」
「避けられますか?」
「分かりません。……桂先生はこの事は?」
「これから知らせに向かう所です。」
そうか、と一時押し黙った吉田だったが、直に何かを見据えたかと思うと、走り出した。
「あっ……関口さん!」
吉田はわき目も振らず、木屋町を上って行った。
おそらく、池田屋へ向かったのだ、と杉山は思い、周囲の気配を探ったあと、
桂の居る対馬藩邸へと向かうことにした。
しかし、今の吉田との会話を、誰に聞かれたかも分からない。
後を付けられることを恐れ、杉山は少々回り道をして、桂の元へ向かうことにした。
まだ、僅かの時間は残されている………と。





彼等はまだ知らない。
人の想像を絶する拷問により、既に壬生では、
古高が口を割り、新選組が動き出していた事を。












池田屋では、宮部が話の通じない激派の志士を相手に苦戦していた。
あくまで計画を実行に移すと言って聞かないのだ。
いかに今の状況が不利かを、あらゆる方向から説明しても、結論は同じ。
「不利かどうかは関係ない。我等は身をもって示さねばならぬ。」
の一点張りなのである。
そこへ知らせを聞きつけた吉田が到着した。
普段感情をあまり昂ぶらせる事のない吉田が激昂し、激派の志士の一人の胸倉を掴んだ。
「あれ程考え直せと言ったのに。君達は自分のした事が分かっているのか!?」
しかし、掴まれた志士は怯む事無く、吉田を睨み付ける。
「もたもたしているあんた等が悪い。一刻も早く古高を奪還し、大火計画を実行すべきだ。」
「まだそんな事を言っているのか。もし天子様を動座奉る事に
成功したとしても、藩の名声は一気に落ちるぞ。」



それこそ、師の教えに反する事である。
新しい国は、武力をもって制する国家では困るのだ。
身分の違いに捕らわれず、才あるものが平等に才を発揮できる国でなければ…


宮部もその意を組んでいるからこそ、何とか激派の者達を説き伏せようと試みているのだ。
今宵、吉田と宮部にとって、彼等を納得させる事こそ、最大の交渉活動………となる筈だった。




「御客様!!旅客改めでございます!!」




急を知らせる番頭の声に、二階で言い争っていた一同は身を強張らせた。
こんなにも早く新選組が現れるとは、予想外だったのだ。
既に一階では戦闘の火蓋が切って落された様で、激しい足音と供にあちこちで悲鳴が上がっている。
志士達は各々の獲物を素早く手に取ると身構え、燭台に近寄り火に息を吹掛ける。
辺り一面が闇に包まれる。
と同時に、目前の襖が蹴倒され、白刃が唸りをあげた。
それを何者かが受けた様で、金属のかち合う音が、部屋に響く。
闇に包まれ、目前に居るのが敵か味方かも分からない。

白刃を振るった人影が声を上げる。

「俺は新選組局長近藤勇だ。さぁ大人しく縛についてもらおうか。刃向かう奴は容赦なく切るぜ。」


「……ほぅ、新選組の大将がお出ましか……。」


その声で、吉田は近藤の刀を受け止めた人物を悟り、緊張を走らせる。
「宮部さん!!」
「私の事はいいから、早く逃げなさい!」
吉田の身を案じた宮部は、声を凄ませ、自分達に近付けまいと牽制する。



「そんな…。私には宮部さんを捨て置くなど絶対に出来ません!」
相変らず義理堅い男だ、と宮部は吉田の優しさを嬉しく思ったが、ここで吉田を失ってはならない。
「今ここで我等が全滅すれば、我々の目指してきた志は潰えるぞ!」
「ですが…」
「誰が新しい国を創る!?私の命など大事の前の小事。己が成すべき事だけを見据えなさい。」
近藤の太刀を受けた時から、自分は最早生きてはいられまい、と宮部は感じた。
「私はもう年だが、君にはまだ未来がある。」
吉田に自分と、日本の未来を託したい。
彼と桂が居れば、間違いなく日本は良い方向へ変わる。
宮部は絞り出すような声で懇願した。




「私と松陰の分も生きなさい、栄太!」




吉田は唇を噛み締めると、柄に掛けていた手を離し、身を翻して窓へと向かった。
「宮部さん、私が戻るまでどうかご無事で!」
言うと同時に、窓を開け放ち飛び降りた。
月明かりに照らされ、一瞬だけ見えた吉田の姿に安堵し、宮部は目前の大物と対峙する。



”私が戻るまでどうかご無事で…”か。
どうか戻ってくれるな栄太。



いくら長州藩邸が池田屋から近いとはいえ、多分彼が往復するまで自分は保たないであろう。
それに戻って来れば、吉田も無事では済まない。
宮部は、藩邸にて乃美が彼を引き止めることに賭けた。


これが宮部と吉田の今生の別れとなり、深手を負って最早身動きの取れなくなった宮部は、
敵に討取られまいと、その場で自刃した。







一方、桂の元へ向かう杉山は、異変を感じていた。
目的地に近づいていくにつれ、辺りが慌ただしくなっていく。
いつもより見廻りの数が多い。
時折、町人の振りをして役人をやり過ごし、見廻り達の言葉に耳を傾けていた。
「池田屋だ!新選組が池田屋に踏み込んだぞ!」
「何人たりとも逃してはならん。怪しい者は捕らえよ!」


「………!!」


吉田さん達が危ない!
一刻も早く桂に事態を知らせねば!

急いて走り出した杉山だが、その動きが
見廻っていた会津藩の兵達の目に留まり、取り囲まれてしまった。
回り道をした事が徒となった、と後悔しても既に遅い。



「何者だ!ここで何をしている!」

「何故今立ち去ろうとした。答えよ!!」



自分の素性を明かす訳にはいかない。
何か取り繕う事はできないか。
杉山が考えを巡らせるより先に、彼を取り囲んだ兵の数人が
「怪しい奴め!」と発して斬りかかってきた。
杉山は抵抗する間もなく、小手を失った。


「………っ!!」


あまりの激痛に声も出ない。
傷口からは、止めど無く鮮血が吹き出している。
このまま、桂の元へ向かえば、追っ手を巻く事も出来ず、
桂の居場所を知らせる事になり、危険が及ぶ。
それならば…と、杉山は咄嗟に思考を転換した。
ここから長州藩邸は目と鼻の先である。
深手を負った今でも、この距離であれば、なんとか逃げ込める。
そう判断した杉山は、会津藩の包囲網の一瞬の隙をついて、逃げ出した。




走れば走る程、出血の勢いは増していく。
だが、それを気にしている余裕などなかった。




必死に藩邸に辿り着くや否や、大声で叫んだ。

「閉門!」

慌てて屋敷から出てきた役人達が門を閉める。
その場で杉山は崩れる様に座り込んだ。
声を聞きつけた乃美が、急いで駆け付けた。



「杉山君、早く止血しないと!」
「池田…屋が…新選組に……っ…」
「君も池田屋に居たのか?」
杉山は頭を振ると、出血で朦朧としてきた意識を懸命に呼び戻しながら、言葉を続けた。
「桂先……生の元へ行く途中、あ…い津兵に囲ま…れ……」
「そうか。では桂さんはまだこの事を知らないんだね。」
「は…い…。すみませ…知ら…せに出た…のに…。」
乃美は懐の手拭を出し、杉山の上腕をきつく縛り上げる。
「よく事態を知らせに戻ってくれた。後は心配しなくていいから。」
そう杉山に声を掛けると、駆け付けた医師に杉山を預けた。




その時だった。




「乃美先生!ここを開けて下さい。」




門の外から聞き覚えのある声がした。
血の気が引くとは、こういう状況の事を言うのか…と乃美は思った。


「池田屋に援軍を!!」


そう叫ぶのは吉田である。
新選組の襲撃をかわし、藩邸まで戻ってきたのだ。
出来ることならば、今すぐにでも門を開け、迎え入れてやりたい。
だが、そうする事はできなかった。
少し前に、追っ手を巻いた杉山が戻ってきている。
ということは、藩邸の周りには杉山を追ってきた会津藩士達が迫って来ているはずである。
このまま開門すれば、吉田を迎え入れると同時に、
会津藩兵が雪崩れ込み、藩邸が壊滅する恐れがある。
乃美は苦汁の決断を迫られ、留守居役としての結論を出した。



「すまない吉田君、今ここを開ければ諸藩に攻められる。開門はできない…。」
「そんな…」
「だから町宿は物騒だと言ったじゃないか!……どうして…っ…」
乃美は震える声を振り絞って叫んだ。




「どうしてもっと早くに戻ってこなかったんだ!!」




そうすれば、門は開いていた。
こうして見殺しにする事などなかったのに…。


涙が溢れ、視界が遮られる。
門前が俄かに騒がしくなり、静まるまでの間、乃美はただひたすら謝った。
一国の為に一人を見殺しにしなければならない、己の立場を恨んだ。



その様子を、医師の手当てを受けながら杉山は一部始終聞いていた。
乃美が様子を見に戻ってきたので、声を掛けた。
「吉田さん……に、悪い…こと…しました。」
「君の所為ではない。気に止む事はないよ。」
「彼は攘夷を成…す為…に、無く…て…は……」
自分が戻らなければ、吉田は無事藩邸に逃げ込めたのだ。
自分だけがこうして藩邸で手当てを受け、吉田を見殺しにしてしまっただけでなく、
乃美にも心労をかけることになってしまった。
口惜しくて拳を握り締めたくとも、その拳は既に自分の体にはない。





徐々に薄れていく意識の中で、ふと、吉田と供に居た少女の姿が浮かんだ。







「あのお嬢さんは…この事を…知っ…てる…のか…。」


吉田に声をかける直前の様子を思えば、きっと宵山には行けないとの事だったのだろう。
吉田のささやかな幸せを踏み躙った。
そしてあの少女から、永遠に吉田を奪ってしまった。
「彼女にも…わる……事を………」


目から零れた一筋の涙と供に、杉山は永久に意識を手放した。
翌日には彼もまた、傷の出血が原因で命を落とした。






この一連の話を聞いて、最も落胆したのは桂である。


「新選組の阿呆どもが…。自ら自分達の首を絞めるとは。」
慎重派の志士をほとんど失った今、長州の勢力は激派が主になったと言って良いだろう。
もはや彼らを止められる者が居ない。
また、幕閣を説き伏せる者も居なくなってしまった。
倒幕派と佐幕派で歩み寄る事は、不可能になってしまったのである。
「惜しい人材を斬ってくれたものよ。」

こうして希望に満ちていた筈の日本の未来は、渦の中に飲み込まれていってしまった。




あとがき


池田屋の話なのでかなり重くなってしまってますが、如何だったでしょうか?
「泡沫の約束」のアナザーサイドストーリーだと思って下さい。
これを全て1本に盛込むと、漫画の場合
前後編では済まなくなる…ということで、漫画では
本当に外したくない部分だけ入れ、あとはカットしています。
…が、当初ここまで長くなる予定ではありませんでした。
直前に頂いた栄太に関する論文を頂きまして、少々栄太と松介の動きが増えてしまったかと…(爆)。
一見新選組のお手柄…にも思われる池田屋事件ですが、自分達にとって利になる交渉を
進めていた志士を多く斬ってしまった為、かえって不利益を被る事になってしまったというとても皮肉な事件です。
恋華には影も形も出てこない乃美、杉山の両人をここまで引っ張ってしまうとは…(爆)。
長州にもいい人はたくさんいるんですよ〜という宣伝とともに
歴史は色んな角度から眺めて見る事も必要だ…と感じていただけたらなら、嬉しいです。
吉鈴前提で描いていながら、鈴花ちゃんがほとんど出てません。
ラブラブを期待していた方には申し訳ないです(^^ゞ









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